モノ作り始まりのストーリー 前編

· ファミリー,モノ作り

物心つく前から父が経営する鉄加工の工場へ通い、また建てていた家に泊まり内装を作る父の背中を見て、自然にモノを作り直すようになる。父の工場があるのは工場エリアで隣は大工さん、車工場やボートを作る人、産業機械を作る人だったり、職人に囲まれて育った。

イスラエル、ハイファ市のカラメル山にある家は、新興住宅地で新しい家が周りに次々に建てられていたので、空き地はもちろん建築中の家の中で友人と遊びまわり、多くの家の建築現場を0から完成まで見ていたから、のち建築を学んだ際には、すべてのテキストの情報をそのときの映像で見ることができた。

学芸員でアートの講義もし今はアートキュレーターの母は、子供の教育にも熱心で、アート感覚を養うよう育てられ、ヨーロッパの美術館などにも連れていかれ芸術にも親しんで育つ。

そして政治家や事業家が多く卒業する歴史のある有名小中高一貫校に通っていた。

とてもスマートで才能に満ちていたらしいけれど(彼の母談)、今はADHD(注意欠如・多動性障害)と診断されるであろう彼。

 

学校の授業の中で、先生の話が聞けなかった。

注意力を先生の声だけにフォーカスできなかったから、すべての雑音が一緒に頭に入り話が聞けなかったそう、文字も読むことが苦手で、親に何かがおかしいと伝えても理解はしてもらえず。

小学校2年生から3年間木工の教室に通い木工仕事を好きになる。6年生くらいから授業に参加しないこともあるようになり、中学1年生からは一日行かないことがあり、だんだん行かなくなる日も増え、行っていても授業に参加しないことが増える。

美術の時間ではあっという間に製作物をつくるので、他の人のものを手伝うようになり、どうせ授業には参加しないから他の美術クラスのアシスタントして、先生を手伝う役を得た。

休みや長い休みの夜は、毎日外で過ごし学校外の友達がでたくさんできる。スケートボードやBMXに乗る。

14才の夏からロックやパンク音楽が流れるクラブに通いはじめ、高校ではオーガナイザーとしてDJしたり、他の学校へ勧誘に行くのに忙しく、学校外でのネットワークを広げていた。

そんな中でも、手を使うのが好きだったのでステンシルを作り、ストリートアートにはまったり、Tシャツ作ったり、友達たちの髪をきったりを、マウンテンバイクのランプを作ったり、壁に色を塗ったり絵をかいたり空間を作ったり、いつも自然と何かを作っていた。

そして17歳でついに学校を辞める。